プーアール茶.com
記事の書きなおし
ちょっと時間をかけてブログのほぼ全記事を書きなおしてゆこうと思う。
いま現場から離れてじっくり読み直してみた時に、文章の不味いのが目立ってしょうがない。
ひとつの記事にひとつのテーマとなるように絞った方がよいところなのにあれもこれもと散漫になっていたり、なんとなく印象的な言葉で書きたいがために本筋から外れてしまっていたり、現場に居るときの僕とはかなり社会環境の異なるみなさんに噛み砕けるような解説になっていなかったり、そしてやっぱり文章もお茶と同じように美味しい印象が残ったほうがよいということで、しばらく休みがちになります。ごめんなさい。
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蓋碗と生茶のプーアル茶
うちのお茶に限って言うと、蓋碗で選ぶお茶はしだいに生茶のプーアール茶ときまってくるのは、やはり相性が良いからだと思う。
大きく開いた口と底の浅い形や薄い白磁という素材はやや保温に弱いから、じんわり煮出すようにして旨味を抽出するのは苦手で、紅茶や熟茶にあるその魅力を蓋碗で引き出すのはちょっと難しい。
その点で生茶はサッと湯を切ってむしろ煮出さないようにし、一煎一煎の風味の移り変わりを楽しむのが良いから、白磁の蓋碗は物理的にも適している。
湯を注いだ瞬間から一刻一刻と変わってゆく風味をどこで切り取るか、淹れ手のセンスが問われるけれど、どんなに熟練したって二度と同じ一杯の味を再現することはできないから、一期一会の味を蓋碗のその形ゆえに見やすい茶葉の様子や湯の色を観察したり鼻に寄せて香りを聞いたりして愛でるのは、お茶ならではの趣があって良いと思う。

蓋碗と生茶のプーアル茶
それと、生茶の「苦」や「渋」や「滋」の陰の味わいがどういうわけか蓋碗に似合っていると思う。逆に甘い紅茶の華やかさや旨い熟茶の豊かさはどうも蓋碗には似合わない気がする。
とくに生茶の古茶樹のお茶には、まろやかながらも確かな滋味がある。滋味には、苦味・辛味・渋味・液体の質感・そして香りなどにはっきりと現れる印象もあれば、あまりはっきりと姿を現さないながらもそこに確かに存在するような印象もあって、(当店では「無い味」と表現することがある)まさに陰の中の味わいという感じがする。
白磁の素材の蓋碗はお茶や水の性質を変えないで、つまり滋味をそのままに残したお茶を淹れられるから、生茶のプーアール茶の陰のところが素直に現れる。「お茶をまろやかに美味しくします」なんていう素材でつくられた茶器はかえってその魅力を消しかねない。
陰の味わいを嗜むのは今どきの趣味ではないから流行らないとは思うけれど、『陰翳礼讃 』谷崎 潤一郎で書かれているようにその美しさの味わいをわれわれは知っているはずだ。
お茶の味にも暗いところの美しさがたしかにあるから、日本の伝統芸能や古い美術の味わいを知る機会があったほうが、お茶はもっと美味しくなると思う。
あるいはもっとダイレクトに、灯りを消した暗い部屋で危なっかしい手つきで蓋碗でお茶してみたら、あんがい瞑想の世界が待っているかもしれない。
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ひとりの蓋碗
先にも書いたように、蓋碗を使うのは自転車に乗るのと同じように指先が自分で勝手にバランスを取る身体的な面白さがあって、何人か集まってお茶を飲むにしても蓋碗で淹れる動作自体を楽しんでいるのは淹れ手のひとりになってしまうから、それは例えばフェラーリを運手する人とその隣に乗せられる人くらい楽しみのギャップがお茶を淹れる瞬間に生じているのかもしれないと思ってみた。
そうすると、蓋碗はひとりにひとつ+同じ量のお茶が入る茶杯がひとつ、という一対の組み合わせがもっとも美しい形かもしれない。
これなら茶海(みんなに均等に分けるためのポット)も茶漉しもいらない。
湯は沸きたてのを保温のステンレス携帯ボトルに入れたら、どこでも好きなところへもって行ってお茶できる。

蓋碗とプーアル茶
動作はよりシンプルになってお茶を飲むことや考え事をするのに没頭できる。
慣れてくると手が勝手に動いて自分用のお茶を注いでくれるし、そういうふうに半分無意識に手が動いているほうがあんがい頭もよく働いているような気がする。
良質のお茶の味ほどささやくように静かなところがあって、その声に耳を傾けているうちにふと日常の時間や空間から離脱したところへゆく感覚になれる。たとえそこが家族のいる茶の間でも、同僚のいる職場でも、見知らぬ人の集まるカフェでも、蓋碗というのはほんの少しでもひとりの時間をつくることができるから、忙しい人の思想ツールとして人気が出たら良いなと思う。
蓋碗でさりげなくひとりお茶する姿はカッコいいし、ビジュアル的に西洋に劣る感じもしないだろう。
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道具が問いかける
蓋碗でプーアル茶
気に入った形の蓋碗を見つけて、うれしくて、今日もまたその話題。
蓋碗は道具としてもうこれ以上に進歩はしないし形を変えないだろう。
使い慣れるのにちょっと熟練を要するのにもかかわらず、慣れてからもなお気を抜いたらポタポタと茶湯を漏らしたり指先に熱いおもいをするのにもかかわらずである。
それは裏返してみたら、自転車が2輪から3輪になったり原動機がついたりしないままでずっと形を維持しているのと同じで、乗りこなす面白さがあるからこそ自転車であり、使いこなす面白さがあるからこそ蓋碗であるということなのだろう。
道具の魅力にはそういう面がある。
より便利になることよりもその魅力が勝っているのはうれしい。

そして蓋碗で淹れるお茶の味にははっきりと意思がある。
これは水やお茶の風味を変えにくい白磁という素材の性質がそうさせるのだけれど、それぞれの茶葉のもつ性質がストレートに表現されるがゆえに、淹れ手がどのように味を調整したいのかと主体性を問われることになるからだ。
茶葉の量や湯の温度や蓋をして蒸らす時間の調整によって、お茶の味は柔らかくも硬くもなる。もうちょっと上達したら香りの立て方も調整できるようになる。
つまり、誰が淹れても違う味になりやすい。
誰が使っても同じような結果になる便利な道具たちとは逆の立場なのだ。その生き方がカッコよい。

使いこなした蓋碗と飲み慣れた茶葉の組み合わせにおいては、きっと世界でいちばん美味しいお茶を淹れていると思えてくる。すくなくとも自分の口にはいちばん美味しいお茶になっているのは事実だし、楽しいわけだ。
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手の味わい
蓋碗でプーアル茶
前回につづいて蓋碗が好きという話。
手にしっくりくる蓋碗はとにかくお茶を淹れたくさせる。
蓋碗の口の縁の薄いところをくすり指と親指の腹で支えてそっと持ちあげる。そのときの感触は、もっと持ちやすくできているものよりもずっと心に作用する。
これはもはやお茶の味よりも手の味わいを味わっている感じ。
「白茶・緑茶・紅茶・青茶・黒茶どれもピタッとキメてやるぜ」と、手が言っている。淹れたくてしょうがないのだ。
実際にこれらお茶ごとの湯の温度や時間の調整は、そのシンプルな構造ゆえに面白いところがある。
そしてなんといってもお茶を注ぐとき。
このクライマックスの瞬間に「気」が入るのだ。
お茶を注ぐときに蓋碗を傾けるだけでは滴が縁をつたってボタボタと真下にこぼれてしまう。だからお茶を注ぎ込みたい茶海とか湯飲みとかの目標に向かって、ちょっと勢いをつけてやる必要がある。そのほんの1センチかそこいらのスナップを利かせる手首と指に、「うまいお茶になれ!」という気持ちがこもる。
これが茶壺ではダメなのだ。
傾けるだけでピューと勢いがついてうまい具合に茶海や湯のみにお茶が注ぎ込まれるから。手動というより自動な感じになって、それでは「気」の入る心地がしない。
もっともお茶によっては蓋碗にそのまま口をつけてひとりで飲むものもあるが、現在そういう飲み方をするのは少ないだろう。茶海とか杯に注いで飲むことが多いはずだ。
シンプルすぎて一見扱いにくそうな蓋碗が、時代が変わってもなぜか不動の人気を維持しているのは、こういう手の味わいを味わえる部分が残っているからじゃないのかな。
この蓋碗、もうちょっと使ってみて良かったらアウトレットで出品しようと思う。
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蓋碗だいすき
良い形の蓋碗が見つかったので、深いのと浅いのと2種買ってきた。
その清楚なたたずまいに、お茶を淹れるときの背筋がすっと伸びる。
良い形とはもちろん美しさもあるが、自分の場合は口が広がっていて熱さに指が煩わされないのがよい。そういう機能と美しさを兼ね備えたのはあんがい少ない。
これは白磁で無地のそんなに高くないものだが、量質の土が使われて、景徳鎮のなんとかという有名窯で焼かれたものらしい。

プーアル茶には蓋碗
さっそく当店の『丁家老寨青餅2012年プーアル茶』『南糯山神青餅2011年プーアル茶』を淹れ比べてみた。
蓋碗の形がちがうと、湯の量とか熱の通りとか保温性とかに差があるので、お茶の味もそれなりに変わる。同量の茶葉で煎じてみても、深い蓋碗は甘味が出やすくおっとりしていて、浅い蓋碗は香りが立って味はキリッとする。
とくに浅いほうの蓋碗では『南糯山神青餅2011年プーアル茶』を美味しく淹れるのにちょっと手こずった。苦みが前に出過ぎて3煎めくらいまでバランスが取れない。もっともこれは茶葉の量が多すぎたことによるものなので、少量にしたら良いのだが、その点深いほうの蓋碗は湯の入る量が多いので相対的に茶葉の量が少なくなるのと、あと深いせいで湯の温度が下がりにくいからじわっと甘味が煮出されるような形になる。

プーアル茶には蓋碗
だから『南糯山神青餅2011年プーアル茶」の品茶で大きめのポットをすすめているのは理にかなっているけれど、それでも浅いほうの蓋碗のほうが気に入った。手にしっくりくる。
その手の感触をたしかめたくて、つぎはどのお茶を淹れようかと考えるくらい。
蓋碗は誰でも最初からうまくお茶が淹れられるわけではない。そのための先生は要らないけれど、自分で何度かお茶をこぼしながら練習しなければならない。
そこが良い。
幼い頃にこういう小さな器をみつけてきて、水を入れて他の器に移したりして遊んだことがあったと思う。それは水と器と手との物理法則を楽しみながら学んでいるわけだけれど、大人になったからこれを学ぶ楽しみがなくなったわけではない。
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お茶の初心者になるべからず
例えば魚釣りをはじめるとしたら、
最初にそろえる道具は少し「初心者向き」のが良いと思う。
「熟練者向き」の道具は使いこなせないし、高価なもので緊張するし、そのために魚釣りの面白さを味わうことができなかったら本末転倒になる。
でも、お茶に初心者向きはないはずだ。本当は。
例えば美術館に「これは初心者向きの絵です」というのは無いのだ。その魅力を万人に余すところなく公開しているのが美術品のよいところで、作家はそれが初心者にわかろうがわかるまいが全力で美の表現に取り組んでいるし、その美の鑑賞においてはチケットさえ買えばみんな平等な立場にある。
同じように、お茶の味に美味しさという「美」を求める権利はみんなに平等にあるはずだ。だから「初心者だからしょぼいお茶を鑑賞しておけばよいでしょ」みたいな売り手の理屈による「初心者向けのお茶」はまったく失礼なものだと思う。初心者向けのお茶が上級品の高価なものだったらまだわからないでもないが、たいがいそういうのはたいしたことのない原料で手抜きの工夫をうまくしてつくられた廉価品なのだ。
だからお茶の美味しさを求めている初心者のみなさん、どうぞ『73青餅7542七子餅茶』『早期紅印春尖散茶』をお試しください。昔の人が全力で美味しさに取り組んだお茶です。初心者向けのお茶を100種試すよりも、このひとつのほうが鑑賞に値するでしょう。
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命名
「なんだか普通すぎやしませんか?」
「もうちょっと尊大な名前は無いのでしょうか?」
「自分の名前を入れたらどうです?」
「せっかくいろいろ工夫してつくったのに・・・」

「そうですね。はじめは古香というのを易武とか漫撒にからめて命名しようかと考えていましたが、やっぱり丁家老寨青餅にしました。この普通なのが良いと思います。なぜかというと、普通すぎて同じ名前のお茶があるかもしれないし、誰かが真似するかもしれない。それが狙いです。」

「?????」

「当店の紹介を見て、別の丁家老寨のもっと安いのを探す人があるかもしれません。その別のお茶が良いと思えば、縁が無かっただけです。しかしその後にこのお茶を買った人は、違いに気がつくはずです。易武山といっても、古茶樹といっても、丁家老寨といっても、春のお茶といっても、その違いはものすごく大きいです。そのうえ偽りもあります。そのことをわれわれはよく知っていますが、お客様は知らないのです。」
「知らないことを知るのは、他人にぜんぶ教えられるよりも、自分で知ってゆくほうが面白いのです。それはまさに今私がここで体験していることと同じです。」
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だまってお茶する
いろんな種類のお茶の中でも、
プーアール茶はとくに陰性が強い気がする。
お茶の陰気なところは、決してマイナスじゃない。
しかし今はこれを肯定的に楽しみにくい雰囲気があるから、飲みものとしての人気がいまひとつなのかな・・・と考えてみた。

よく売れているはずのペットボトルのお茶に、健康効果のような機能がさかんに訴えられるのも、お茶がずっと昔からもっている価値ではもの足りないということなのだろう。

ちょっと高級なペットボトルのお茶は、テレビコマーシャルなどで過剰なまでにイメージを植え付けないと誰も買う気を起さないだろうと広告のプロが考えるのも、お茶そのものの魅力ではひっぱってゆけないからだろう。

当店のオリジナルのお茶は、本来は「西双版納の旬の古茶樹です」というだけでよいはずだ。それ以外の情報や演出はむしろ邪魔なはずだ。
だまって売られて、だまって飲まれる。
たぶんそれが陰性のお茶のいちばんかっこ良いあり方だ。
ネットショップみたいに騒がしいのや、いまどきのカフェみたいに賑やかなのは性に合わないはずだ。

高倉健なのだ。
女性はどうか知らないが、男がお茶を飲むならだまって飲むだろう。
高倉健ならお茶を買うにしても「これください」としか言わないだろう。
高倉健がダイエットのためのお茶を飲んだりはしないし、テレビCMのお茶をコンビニに探しに行くことはないし、新しいカフェやなんかをよろこんで覗きにゆくこともない。ましてスマホで人気店を検索みたいな器用なことはしない。

そういうカッコよさ教育がなくなったのだ。
子供のころから「だまっていちゃわかりません」と教育される。
社会人になってもアメリカ人を真似したみたいな笑顔でスピーチ上手が前向きで、だまっている人は後ろ向きと評価される。
だまっている人がほんとうに価値がないのかどうか、試してみたくなってきた。

けれど、
もうちょっとお茶が売れてからにしようと思う。
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温故知新
丁家老寨青餅2012年プーアル茶
『丁家老寨青餅2012年プーアル茶』もうすぐ出品。
このお茶づくりを経験してますます伝統の技術を探りたくなった。
たくさんの知恵や技術がまだ埋もれていると思う。
易武山の昔のお茶づくりは、断絶の50年間(1950年〜2000年)を、解放後の10年間(2000年〜2012年)で埋めることができないままでいる。
それどころか、みんな経済社会の求める商品としての機能を急いで追いかけていて、伝統をなかったことにして、新しいものほど良いとするような雰囲気さえ感じさせる。
この際だから、新しいものをやるチャンスという見方もある。
皮肉にも、今のお茶業界を含めた食品業界で華々しく活躍する人ほど、間接的に伝統を殺す役割を担っているのかもしれない。

幸いにも漫撒茶山(旧易武山)の一部の農家に、茶樹の栽培や原料の毛茶づくりで伝統が残っていたから、お茶づくりにおける60%のところは容易に掘り起こせると思う。
しかし、昔の茶荘のやっていた製茶の細かな調整や、茶葉の選び方や、圧餅の技術などの40%のところは、探ればもっと出てくるだろう。
すべてを知る人は誰もいないのだ。

現在の生茶のプーアール茶は、
「これが正しい」と疑いもなく言える人の方が疑わしい。
本当にそれを知っている人は、もうこの世にひとりもいないはずなのだから。
そのくらいに、お茶づくりは個人に宿る技術や知恵が大きいということなのだろう。文章で伝達できるところは全部ではない。
人から人に伝承されなかった50年間は、これからもっと重みを増してくるはずだ。

当店は「伝統」とか言って、イメージの良さを利用たいのではない。
そのほうが経済的な観点からしても、お茶を飲む人のメリットからしてもずっと得になる可能性を見ているのだ。
中国4000年の・・・と漢方薬の謳い文句があるけれど、漢方のすごいところはそれを試してきた人の経験の膨大な蓄積だと思う。ある意味で長い長い人体実験を繰り返した成果なのだ。自分自身で効能を感じて、新しい薬草を探したり調合を変えたりして、試してはまた調整してゆくことを繰り返し、何年も、あるいは何十年もかかって少しずつ理解してゆく。そういう歩みでしか解決できない問題もある。

それがお茶の味や効能にもあると思う。
漢方薬と同じようなアプローチが、お茶づくりの伝統にはあったと思う。
最新の科学技術を用いても30年では解決できないことが、お茶づくりの歴史のこの1000年にはあると思うから、伝統を発掘した方が早いというのが当店の目論みなのだ。
30年で解決としたのは、自分が生きているうちにはっきりしないと面白くないからだ。
先を急いで焦っているのはむしろこっちのほうだ。
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