プーアール茶.com

波がよせるように煎がすすむ

波がよせる。
一煎め・二煎め・三煎め・四煎め・五煎め・・・・・。
この始まり、この移ろい、この終わり。
一煎めで始まる。
予兆はまず外側からくる。
眼に光と色。鼻に香り。耳に音。肌に空気。
さっきまでとどこか違ってくる。
野生が目覚めて敏感になる。

波

二煎め・三煎め。
内側に波が入ってくる。
舌や頬や歯茎に後味。喉にうるおい。腹の底にぬくもり。
吐く息・吸う息ごとに深くなる覚醒やまどろみ。
手足の指の先までじんわりしてくる血の流れと心の鼓動。
波に乗る。
茶酔いに身を任せて揺れるままに揺れる。
波の味わいは言うまでもなく煎と煎のあいだの時間にある。
一杯めを飲んでから二杯めまでのひととき。
二杯めを飲んでから三杯めまでのひととき。
だからお茶を淹れるときはこの”間”を意識しなければならない。
そんなに難しくはない。
自分のタイミングでやればよい。
おそらくみんなも同じ波長でゆれるから。

杯

プーアール茶ならだいたい四・五煎めでピークがくる。
ピークの後の波はゆったりおだやかになってゆく。
いつまでも浮いて漂っていたいけれど、凪いで静まるより先にお腹がタプタプになるから、どこかで終わらせないといけない。
いや、終わらせなくても終わりはくる。
なんらかのカタチで必ずくる。
終わりたくないよな。
でも、終わるのだ。
どうしようもないのだ。
終わりの味わいを味わえ。

残

ひとりで味わうこと

路地

することがないから知り合いの旅館でバイトしている。
3部屋だけの小さな旅館。
お客がないからマネージャーもたまに来るだけで、誰もいない旅館にひとりぽつんと留守番。
ここでもすることがなくて、ひとりで掃除したりお茶を淹れたりしている。
お客がないのでたいして汚れていないけれど、でも掃除はするのだな。
何のため?誰のため?
うーん。
掃除もまた、何のため誰のためというのはないのかもしれない。
あえて言うなら、石とか土とか木とか金属とかプラスチックとか落ち葉とか、塵や埃や油やタンパク質の汚れとか。
それらすべての物質の”気”の流れを良くするため。
気の流れが良くなってどういう効果や結果があるのか、そこまではわからない。
ただ、流れが良くなった感じは、自分の眼や鼻や肌をとおして伝わってくる。入ってくる。
自分の存在に意味を求めるとしたら、身の周りの”気”の流れをよくするためにこの肉体があり心があるということで、社会的に存在価値の薄れた私にもなんらかの役割があるということで、安心してよいのだろう。
でも、ほんとうは意味などないのだ。
勝手に意味を持たせて安心したいだけ。
ただ、ぽつんと掃除の味わいがあるだけ。

鉄瓶
注ぎ

ひとりでお茶を淹れて飲む。
何のため?誰のため?
多くの人が、ひとりでお茶を淹れると美味しくならない。
だらけるから。
緊張感もなければ集中力もない。
水に緊張が伝わらなければ、お茶はぜったいに美味しくならない。
裏返せばつまり、お茶を淹れて飲むという行為に、何のため誰のためという目的のウェイトを掛けているということだな。自分の存在に意味を持たせないと、真剣にお茶を淹れることができない。
この態度。
お茶を淹れること。飲むこと。
そのものずばりの味わいを味わっていないということにならないかな。
ただ、ぽつんとお茶の味わいがあるだけでは、真剣にはなれないのかな。
実は、多くの人が”味わう”ことを知らず、まだお茶に出会っていない。

茶湯

茶酔いを怖がらない

中国茶は喫茶道。
お茶を飲むほうの人が修行する道。
茶酔い学についてのつづき。
+【黙って酔うべし】
茶王樹
茶王樹
茶酔いの素晴らしいお茶を飲んでも、それに気付かないままになる人もある。
もったいないよな。
酔いの優れたお茶は、間違いなく高価だから。
中医学の思想が生きている中国茶にしか、「その価値は存在しない」と、言い切ってよいだろ。
茶湯
仕事柄、お茶を飲む人をたくさん観察する機会があって、わかってきたのだけれど、もしかして茶酔いが怖い?
茶酔いの感覚に入りかけたとき、身をまかせて浮かんで漂うことに違和感を感じて、おしゃべりしたり、他のことをしだしたり、わざわざ酔いから抜け出そうと努力する人が、あんがい多いのだ。
音楽のリズムに揺れる身体を止めようとするように、茶酔いの波に揺れるのをあえてなかったことにしたい気持ちが見え隠れする。
中国茶にキャリアのある人でさえ、茶酔いを避けようとする場面を何度も見てきている。
そんなに怖いかな?
アルコール中毒で死ぬ人はあっても、茶酔いで死ぬ人はいない。はず。
喫茶
茶酔いで目がイッてるように他人から見えるのが恥ずかしい?
黙ってしまっては、いっしょにいる人達に失礼だと思う?
自意識過剰だろ。
男性だけのお茶会のほうが、みんなの酔いのまわるのが早いのは、女性に気を使う性質のせいだろう。
葉底
上質の茶酔いを知ったら、酒の酔いなどオマケくらいのものなのだ。
ただ、出会う人は少ない。
長年友達で、何度も茶酔いの優れたお茶を飲んでいるのに、出会わない人もいる。そっちのほうが多い。
縁ののものはコントロールできないらしい。

黙って酔うべし

泡茶

茶酔いを味わうなら、おしゃべりをしてはいけない。
しゃべると酔いが覚めるから。
このおしゃべりは、他人のおしゃべりではなく、自分のおしゃべりである。
声には出さなくても、だいたい人はいつも頭の中でおしゃべりしている。
思想していると、そのノイズが茶酔いを消してしまう。
黙ること。
できる人とできない人がいる。
できる人にはカンタンすぎて、できない人のことが理解できないだろう。

ヨガを習い始めたときに、ストレッチしながら脱力する、そのコツを知らないことに気付いた。
自分はできない人だった。
先生に教えてもらって、呼吸の練習をして、やっとできるようになったのだ。
これと似て、茶酔いに入るにはまず頭の脱力の、そのコツをつかむところから始めることになる。
他の習い事などで頭の脱力を習得している人は少ないほうだろう。多くの人が騒がしいままお茶を飲んで、茶酔いに出会えないままでいる。
ちゃんと教える人がいないし、その教え方も、他の習い事のようには成熟していない。
でも、これでよいと思う。
中国茶の上等は茶酔いの質にその真価がある。
上等は姿を表さない。
老若男女、お金のあるなしにかかわらず、茶酔いの味わいの姿を、見える人には見えて、見えない人には見えない。
そこがカッコいい。

茶酔いの姿が見えるようになったときは嬉しい。
嬉しいことはみんなに伝えたくなる。
でも無駄なのだ。見えない人にいくら熱く語っても、共有できないのだから。
お茶会で数人集まって、同じお茶を飲んでいても、実は共有できていない。
それでいいのだ。
姿を見ていない人に、「あなたは見えていないですよ」と教えて、自覚していただく必要はまったくない。
見えていないということは、はじめからそれは無いということ。存在しないということ。
そっとしておけば、なにも傷つけない。
ポジションの上下が成立しない。
そのやさしさ、そのむなしさがよい。

茶学 脳に伝える

茶葉と銅の茶則
気が静まらない。眠れない。
そんなふうに脳が騒いでいるときに、静まれ!と命令しても静まらない。
脳を、脳自身が制することはできないから、ヨガは身体からアプローチする。呼吸を通して骨や肉や内蔵や血のメッセージを脳に伝える。
同じことのできる習い事はヨガ以外にもあるだろう。お茶もそう。
脳と身体は主従関係にあるのではない。
だからお茶は自分で淹れないと意味がない。
水や火や土や金属や木や茶葉のような元素のメッセージを身体から脳に伝える。
ただそれだけのことを毎日続ける。
お茶することの教養とか健康とか、思いつく程度のご利益は脳が自分で思っているほどたいしたものではないから、とにかく自分で淹れて飲む習慣を身につけるのみ。

茶学 整えない

西双版納の山の泉
子供がお茶を淹れると大人よりも美味しくなるのは偶然じゃない。
子供の注ぐ水は活き活しているから、お茶の味も活き活きする。
大人は水を注ぐのに、こぼしてはいけないとか、美しく見えたいとか、美味しく淹れたいとか、意識がお茶淹れの動作をカタくして水もカタまる。
子供の手はそこまで水をきっちりコントロールできないから、ヤカンから茶壺へ注ぐ湯がユルユルして外にこぼれたり、茶壺から杯にそそぐ水が勢い余って外に飛び出たり、水は乱れてありのままをさらけ出す。
大人でも油断するとそうなることはある。けれど、油断してそうなるのと、緊張してもそうなってしまう子供のと、水の振動は微妙に違うのだな。
水の入った茶器を動かすと、動きにあわせて水は揺れる。動きが早かったり動線が鋭角だったりすると水は暴れる。
そんな水の自然な状態を自分の思うように制しようとしないで、ちょっと許してやるくらいのほうがよいのかもしれない。

茶学 人を見ない

他人のことが気になるような、
暇な人の趣味になってはいけない。
お茶を淹れると、人それぞれの味が出てくる。
個性があって、まるで人格が映し出されるように見える。
しかし、そのときに人を見てはいけない。
人を見るのは茶学の目的ではない。
一杯ごとのお茶の味から、その原因となった技術や物理を探る。
それだけに集中する。
もしもお茶の味に人格が出るとしても、そこからなにかを学べるのは自分で気付くときだけ。
こういう話をあえてするのは、どうやら暇な人が多いということ。
自分を見る機会をお茶に求めるよりも、他人を見る機会を見つけてしまう人が多いということ。
お茶のワナだ。
誰もがカンタンにはまってしまう。
そうはさせまいと自分に言い聞かせよう。
茶学人を見ない

茶学 おなら

ひとことで言うと、
おならを我慢しなければならないようなところに座らされてお茶を飲まされるのは嫌だということ。
「ちょっと外に出ておならしてきます。」くらい気安く言えるようにしてほしい。
良いお茶を飲めばお腹がグーッと鳴る。それが気になるくらい空気を緊張させると、お茶の味に影響を与える。
メコン川
メコン川
お茶

茶学・気配

茶学気配

誰かがお茶を淹れるときの気配を覚える。
その気配、
湯の沸く音とか、
湯気の立つ勢いとか、
茶器が茶盤に置かれたときの響きとか、
茶則の中の茶葉がカサカサ鳴る音とか、
庭の虫の声とか、
人の声の響き方とか、
風の匂いとか、
空気の肌触りとか、
淹れる人の呼吸とか、
手と茶器の動きとか、
注ぐ水音とか、
共鳴する茶壺や茶杯とか、
水と光の反射とか、
杯に茶を分けるリズムとか、
杯を取った指の感触とか、
茶湯の色あいとか、
口当たりや舌触りとか、
香りや味のゆく方向とか、
喉を伝わり胃へ落ちるスピードや水質とか、
肩から背中にかけてのチカラの抜けとか、
腕の重さとか、
指先の毛細血管をめぐる血とか、
茶酔いの眠気とか、
・・・・。
息を細い線でゆっくり吐いて吸って。
目の前のことだけに集中して。
静かな気持ちで。
いろんな気配を感じ取る。
どんな気配のときに、お茶はどんな味がしたかを覚える。
自分がお茶を淹れるときに、ちょっと気配を意識してみる。

茶学・言葉にしない

茶学 上海
(写真:上海での茶学)
手順をひとつ加えることにした。
案内役の自分は初回のお茶淹れを担当するが、お茶を淹れる前に湯を注いで飲んでもらう。
水の落ち方がちがうと口感がちがう。
自分の中のイメージでは1杯目に「トロンとした水」、2杯目に「キリッと爽やかな水」。
この口感の違いは誰にも分かる。
ただ、言葉にはしない。
このとき面白い反応がある。
1杯目と2杯目をどんな言葉にしてよいのかわからなくて聞いてくる。
こう答える。
「どんなふうに違うのかわかったでしょ?それでいいのですよ。」
でもみんなは言葉にしたい。
1杯目は「静」で、2杯目は「烈」。
1杯目は「柔」で、2杯目は「硬」。
1杯目は「軽」で、2杯目は「重」。
いや、1杯目は「重」で、2杯目は「軽」でしょ?
どちらが正しいのですか?
ひとりひとり感じ方が違うと理解していいのですか?
という具合。
ひとりひとり感じ方が違うのではない。
そんなはずがない。みんなに同じ水の振動が響いている。
表現につかう言葉がひとりひとり違うだけなのだ。
言葉で学ぶことの限界。学びを言葉に頼ってはいけない。
1杯目と2杯目の違いを正しい言葉で覚えても、水はつくれない。水をつくるのはイメージであり音であり、心や身体の動きであり、いつも流動的に変化しながらバランスをとっていて、固定できないものだから。


茶想

試飲の記録です。

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