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茶学 脳に伝える

茶葉と銅の茶則
気が静まらない。眠れない。
そんなふうに脳が騒いでいるときに、静まれ!と命令しても静まらない。
脳を、脳自身が制することはできないから、ヨガは身体からアプローチする。呼吸を通して骨や肉や内蔵や血のメッセージを脳に伝える。
同じことのできる習い事はヨガ以外にもあるだろう。お茶もそう。
脳と身体は主従関係にあるのではない。
だからお茶は自分で淹れないと意味がない。
水や火や土や金属や木や茶葉のような元素のメッセージを身体から脳に伝える。
ただそれだけのことを毎日続ける。
お茶することの教養とか健康とか、思いつく程度のご利益は脳が自分で思っているほどたいしたものではないから、とにかく自分で淹れて飲む習慣を身につけるのみ。

茶学 整えない

西双版納の山の泉
子供がお茶を淹れると大人よりも美味しくなるのは偶然じゃない。
子供の注ぐ水は活き活しているから、お茶の味も活き活きする。
大人は水を注ぐのに、こぼしてはいけないとか、美しく見えたいとか、美味しく淹れたいとか、意識がお茶淹れの動作をカタくして水もカタまる。
子供の手はそこまで水をきっちりコントロールできないから、ヤカンから茶壺へ注ぐ湯がユルユルして外にこぼれたり、茶壺から杯にそそぐ水が勢い余って外に飛び出たり、水は乱れてありのままをさらけ出す。
大人でも油断するとそうなることはある。けれど、油断してそうなるのと、緊張してもそうなってしまう子供のと、水の振動は微妙に違うのだな。
水の入った茶器を動かすと、動きにあわせて水は揺れる。動きが早かったり動線が鋭角だったりすると水は暴れる。
そんな水の自然な状態を自分の思うように制しようとしないで、ちょっと許してやるくらいのほうがよいのかもしれない。

茶学 人を見ない

他人のことが気になるような、
暇な人の趣味になってはいけない。
お茶を淹れると、人それぞれの味が出てくる。
個性があって、まるで人格が映し出されるように見える。
しかし、そのときに人を見てはいけない。
人を見るのは茶学の目的ではない。
一杯ごとのお茶の味から、その原因となった技術や物理を探る。
それだけに集中する。
もしもお茶の味に人格が出るとしても、そこからなにかを学べるのは自分で気付くときだけ。
こういう話をあえてするのは、どうやら暇な人が多いということ。
自分を見る機会をお茶に求めるよりも、他人を見る機会を見つけてしまう人が多いということ。
お茶のワナだ。
誰もがカンタンにはまってしまう。
そうはさせまいと自分に言い聞かせよう。
茶学人を見ない

茶学 おなら

ひとことで言うと、
おならを我慢しなければならないようなところに座らされてお茶を飲まされるのは嫌だということ。
「ちょっと外に出ておならしてきます。」くらい気安く言えるようにしてほしい。
良いお茶を飲めばお腹がグーッと鳴る。それが気になるくらい空気を緊張させると、お茶の味に影響を与える。
メコン川
メコン川
お茶

茶学・気配

茶学気配

誰かがお茶を淹れるときの気配を覚える。
その気配、
湯の沸く音とか、
湯気の立つ勢いとか、
茶器が茶盤に置かれたときの響きとか、
茶則の中の茶葉がカサカサ鳴る音とか、
庭の虫の声とか、
人の声の響き方とか、
風の匂いとか、
空気の肌触りとか、
淹れる人の呼吸とか、
手と茶器の動きとか、
注ぐ水音とか、
共鳴する茶壺や茶杯とか、
水と光の反射とか、
杯に茶を分けるリズムとか、
杯を取った指の感触とか、
茶湯の色あいとか、
口当たりや舌触りとか、
香りや味のゆく方向とか、
喉を伝わり胃へ落ちるスピードや水質とか、
肩から背中にかけてのチカラの抜けとか、
腕の重さとか、
指先の毛細血管をめぐる血とか、
茶酔いの眠気とか、
・・・・。
息を細い線でゆっくり吐いて吸って。
目の前のことだけに集中して。
静かな気持ちで。
いろんな気配を感じ取る。
どんな気配のときに、お茶はどんな味がしたかを覚える。
自分がお茶を淹れるときに、ちょっと気配を意識してみる。

茶学・言葉にしない

茶学 上海
(写真:上海での茶学)
手順をひとつ加えることにした。
案内役の自分は初回のお茶淹れを担当するが、お茶を淹れる前に湯を注いで飲んでもらう。
水の落ち方がちがうと口感がちがう。
自分の中のイメージでは1杯目に「トロンとした水」、2杯目に「キリッと爽やかな水」。
この口感の違いは誰にも分かる。
ただ、言葉にはしない。
このとき面白い反応がある。
1杯目と2杯目をどんな言葉にしてよいのかわからなくて聞いてくる。
こう答える。
「どんなふうに違うのかわかったでしょ?それでいいのですよ。」
でもみんなは言葉にしたい。
1杯目は「静」で、2杯目は「烈」。
1杯目は「柔」で、2杯目は「硬」。
1杯目は「軽」で、2杯目は「重」。
いや、1杯目は「重」で、2杯目は「軽」でしょ?
どちらが正しいのですか?
ひとりひとり感じ方が違うと理解していいのですか?
という具合。
ひとりひとり感じ方が違うのではない。
そんなはずがない。みんなに同じ水の振動が響いている。
表現につかう言葉がひとりひとり違うだけなのだ。
言葉で学ぶことの限界。学びを言葉に頼ってはいけない。
1杯目と2杯目の違いを正しい言葉で覚えても、水はつくれない。水をつくるのはイメージであり音であり、心や身体の動きであり、いつも流動的に変化しながらバランスをとっていて、固定できないものだから。

茶学・自分で味わう

茶学はお茶を味わうことを学ぶ。
お茶を味わうのはカンタンなようでそうでもない。味わことを他人にまかせて、自分で味わうことを忘れやすいからだ。
例えば、中国でお茶好きが集まると、茶葉の良し悪しの品評がはじまる。ところが、お茶の経験において先輩な人が評価すると、みんなはそれに頼ることが多い。
「小茶樹(樹齢の若い茶樹)だから渋いね。」
なんて話になると、茶葉の価値がそこで決まってしまう。
いや、ちょっと待って。
その見方は確かにあるけれど、違う見方もあるのじゃないの?という具合に、慎重に美の観点を探るようなことは少ない。まして淹れ方をちょっと変えてみて、別の角度から鑑賞するようなことにはめったにならない。
身体の感覚、心の動き、すべてに意識を集中して、それ固有の美を探るのは、面倒な作業なのだ。
誰にでもわかりやすくしよう。便利にしよう。そうやってお茶の評価基準みたいなのが設定される。ある種のお茶の正しい味・正しい道具・正しい淹れ方。客観的で公平で近代的な知識でお茶を理解するのには都合が良い。専門誌・インターネット・テレビ番組で拡散される他人によるお茶の味わい。
茶学
茶学ではまったく通用しない。
自分で淹れたお茶を自分で評価しなければ、つぎの一杯が淹れられないから。
お茶淹れ初心者には、1煎めのお茶を飲んでから必ず聞いてみる。
「自分で思ったように入りましたか?」
抽象的な感想で十分。
「もっとやわらかく淹れたかった。」
「もっとキリッとさせたかった。」
でも、具体的にどうしたらよいのかは自分で考えてもらう。
「では、もっとやわらかくなるようにイメージして淹れてください。水の流れる感じとか、茶葉が湯にほぐれてゆく感じとか、飲む人の口に触れる湯の温度とか、口に含まれる茶湯の量とか。」
キリッとさせたい場合には、キリッとしたイメージをつくってもらう。イメージが大事。イメージが微妙に呼吸を変える。姿勢を変える。動作を変える。水の振動を変える。そしてお茶の味を変える。
他人ではなく自分の味が基準。
茶学では客席についている人に「味はどうですか?」なんて聞くのは無駄。その人のお茶の味の見方は、その人の淹れたお茶で表現されるから。
自分が淹れた最初の一杯目をどう評価するか。
自分の順番の前に淹れた人のお茶を、自分がどう評価するか。
真剣にお茶を味わいたければ、淹れる側の席につくべし。

茶学・お菓子はいらない

茶学はヨガのように、
あるいは囲碁や将棋のように、
参加者全員がプレーヤーであるから、純粋な客人はひとりもいない。客をもてなす必要はないから花も菓子も要らない。
お茶を飲みすぎて低血糖にならないために、各自が好きに甘いモノを少しだけ持ち寄るのはよいが、お菓子自慢大会はしないこと。
茶器の後片付けはみんなで手分けして行うこと。
水洗いした後は乾いた布でしっかり拭くこと。
茶学にお菓子はいらない
今日の授業はここまで。

茶学・作法

西双版納の自宅で茶友と二人で茶学をしてみた。
このとき、はじめて茶学がうまくゆかなかった。
いつでもどこでも誰とでもうまくゆくと思っていたので、意外な展開だった。
なぜそうなったのか?
人の構成とルールの設定について、ちょっと考える機会となった。
まず、公平性について不信感があった。
同じ茶葉、同じ茶器、同じ水、3煎か4煎で終了というルールは公平なはず。
慣れていようがいまいが同じ。経験者よりも初心者のほうがずっと美味しい一杯が入ることがある。本人も含めて、参加者全員がその原因と結果を目の当たりにできるのが茶学のよいところ。
ところが、人によっては素直に受け入れられない。
今回の場合、老師役をする自分だけ結果を知っていて有利であり、はじめて経験する生徒役のほうが不利であるという不信感をぬぐえなかった。「自分ならもっと美味しく淹れられるかもしれない・・・」という期待でワクワクするような気持ちに生徒がなれない。
当然の結果として、茶友の淹れたお茶は退屈な味になる。
生徒を二人以上で参加させるべきだった。生徒同志で「自分ならもっと・・・」、「自分ならこうする・・・」という期待が生まれ、期待することで思いもしなかった効果がお茶の味に現れるのを体験しただろう。
生徒は二人以上で行うのがよい。
退屈な味になった理由がどこにあったのか、自ら気付くこともできる。
道具と子供
茶学チェンマイ
(写真はタイのチェンマイにて子供たちの茶学。上は、道具に興味深々の子供たち。下は、大人たちを差し置いて堂々たる美味しいお茶を淹れた女の子。)

つぎに、生徒に勝手なお喋りをさせてはいけなかった。
茶学は目の前のお茶を美味しく淹れることだけに集中する。今この瞬間にすべてがある。ところが、お茶の知識のある人ほど、茶葉がどうとか茶器がどうとか水がどうとか議論したがる。議論するのがお茶の楽しみ方であるとすら思っている。
頭でお茶を飲んでいる。
そうするとお茶淹れを目の前にして言いたいことがいっぱい出てくる。心が騒いで、自分の内側の声を聞く余裕などない。一杯のお茶をしっかり味わうことができないし、ましてお茶を淹れるために茶葉や茶器や水と自分とが調和するなんてことを考えもしない。
だから問題はいつも自分の外側にある。
美味しいお茶が入らないのは、茶葉になにか問題がある、茶器になにか問題がある、水になにか問題がある。その問題を見つけることに集中して、ひとつでも見つけたら解ったような気になるが、今この一杯を美味しく淹れることの役には立たない。
脳が興奮状態になること=なにかを学ぶこと。
われわれはそういう学び方を過去にしてきたけれど、茶学はそうではない。静かになることを体得して、問題を自分の内側に問う手段である。
心が静かになると美味しいお茶が入る。この事実だけで十分。
参加者によっては、静かになったほうが良さそうだと自分で気付かない人もいる。なので強制的なルールを設けたほうがよいだろう。
老師を担当する人以外はお喋り厳禁。
今後はそうしようと思う。
構成とルールによって学べることが異る。この完成度を高めてゆくと「作法」になる。
茶学に国籍はない。いつでもどこでも誰とでもというのを実現する作法は、わかりやすさが必要かもしれない。
今回の茶学は、生徒よりも老師のほうが学んだ。
茶友は茶友の役割を果たした。

茶学・水音を聞く

チェンコーンのメコン川
チェンコーンのメコン川
チェンコーンのメコン川
水音を聞く。
茶学の参加者みんなで聞く。
水音を聞くときはだれでも静かになれる。心地よい音楽のように、外側に向いていた意識が自分の内側に戻ってくる。
心がシンとなって、お茶の余韻を味わう準備ができる。
古池や蛙飛び込む水の音
また、リズムもそこに発生する。
茶壺から杯へ落ちる水滴のポトポトや、杯から杯へと注ぎ分ける一瞬の間がつくるリズム。
聞こえる効果と、聞こえそうで聞こえない効果と、どちらもあるからお茶を淹れる人が水音を立てるか立てないかは自由。また、偶然が作用してなかなか思い通りにはゆかないのが現実。
けれど、意識することが大事。
音楽の演奏のように、美しい音とそうでない音ははっきりしている。
茶学・水音
水音はミクロの世界で水のカタチを変える。水のカタチが茶葉の成分の配列を変える。そしてお茶の味を変える。お茶の味は飲む人の気持ちを変える。人の気持ちはめぐりめぐって世の中を変える。
茶器を楽器のように操って、いい水音を鳴らしてみたくて、うずうずしてきたでしょ。


茶想

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