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茶学・作法

西双版納の自宅で茶友と二人で茶学をしてみた。
このとき、はじめて茶学がうまくゆかなかった。
いつでもどこでも誰とでもうまくゆくと思っていたので、意外な展開だった。
なぜそうなったのか?
人の構成とルールの設定について、ちょっと考える機会となった。
まず、公平性について不信感があった。
同じ茶葉、同じ茶器、同じ水、3煎か4煎で終了というルールは公平なはず。
慣れていようがいまいが同じ。経験者よりも初心者のほうがずっと美味しい一杯が入ることがある。本人も含めて、参加者全員がその原因と結果を目の当たりにできるのが茶学のよいところ。
ところが、人によっては素直に受け入れられない。
今回の場合、老師役をする自分だけ結果を知っていて有利であり、はじめて経験する生徒役のほうが不利であるという不信感をぬぐえなかった。「自分ならもっと美味しく淹れられるかもしれない・・・」という期待でワクワクするような気持ちに生徒がなれない。
当然の結果として、茶友の淹れたお茶は退屈な味になる。
生徒を二人以上で参加させるべきだった。生徒同志で「自分ならもっと・・・」、「自分ならこうする・・・」という期待が生まれ、期待することで思いもしなかった効果がお茶の味に現れるのを体験しただろう。
生徒は二人以上で行うのがよい。
退屈な味になった理由がどこにあったのか、自ら気付くこともできる。
道具と子供
茶学チェンマイ
(写真はタイのチェンマイにて子供たちの茶学。上は、道具に興味深々の子供たち。下は、大人たちを差し置いて堂々たる美味しいお茶を淹れた女の子。)

つぎに、生徒に勝手なお喋りをさせてはいけなかった。
茶学は目の前のお茶を美味しく淹れることだけに集中する。今この瞬間にすべてがある。ところが、お茶の知識のある人ほど、茶葉がどうとか茶器がどうとか水がどうとか議論したがる。議論するのがお茶の楽しみ方であるとすら思っている。
頭でお茶を飲んでいる。
そうするとお茶淹れを目の前にして言いたいことがいっぱい出てくる。心が騒いで、自分の内側の声を聞く余裕などない。一杯のお茶をしっかり味わうことができないし、ましてお茶を淹れるために茶葉や茶器や水と自分とが調和するなんてことを考えもしない。
だから問題はいつも自分の外側にある。
美味しいお茶が入らないのは、茶葉になにか問題がある、茶器になにか問題がある、水になにか問題がある。その問題を見つけることに集中して、ひとつでも見つけたら解ったような気になるが、今この一杯を美味しく淹れることの役には立たない。
脳が興奮状態になること=なにかを学ぶこと。
われわれはそういう学び方を過去にしてきたけれど、茶学はそうではない。静かになることを体得して、問題を自分の内側に問う手段である。
心が静かになると美味しいお茶が入る。この事実だけで十分。
参加者によっては、静かになったほうが良さそうだと自分で気付かない人もいる。なので強制的なルールを設けたほうがよいだろう。
老師を担当する人以外はお喋り厳禁。
今後はそうしようと思う。
構成とルールによって学べることが異る。この完成度を高めてゆくと「作法」になる。
茶学に国籍はない。いつでもどこでも誰とでもというのを実現する作法は、わかりやすさが必要かもしれない。
今回の茶学は、生徒よりも老師のほうが学んだ。
茶友は茶友の役割を果たした。

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