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意識と無意識について その1.

オリジナルのお茶の多くが一天一采(ある一日に摘んだ茶葉でひとつのお茶をつくる)になっていて、これのなにが特徴かというと、写真のような一瞬を切り取って見せているところだろうな。
例えば、春の森のここぞというシーンをパチリと切り取っている感じ。
春というテーマがあったとして、みんなはなにを撮るだろう。
桜を撮るようなベタなのはわかりやすいけれど、ちょっと絵心のある人なら、春をあからさまに象徴しない被写体を選ぶのじゃないかな。
例えば、海の水平線あたりの遠くの波がキラキラ反射しているだけの写真だとする。抽象的だけれど、たしかにその光は夏でも秋でも冬でもない。ちゃんと春を感じることができる。
べつに海じゃなくてもいいのだ。ただ窓から部屋に射し込む光だけでもいい。
なぜ、わざと春を象徴しない被写体にするのかというと、眼球から入った信号が、言葉で理解しようとする脳をとおり越して、もっと深いところに潜入してほしいからだろう。
無意識のところ。意識している自分じゃないところ。
なぜかその脳は知っている。
たとえ海を見たことのない人でもわかる。
もしかしたら春をはじめて経験する赤ちゃんでも、写真に写っている春を認識できかもしれない。
光の信号でなくてもいい。音でもいいし、皮膚感覚でもいいし、香りでもいいし、味でもいい。
経験しなくても知っている。
外とつながっている。
過去とつながっている。
もしかしたら未来ともつながっている。
自分の中に神がいる。
滑竹梁子
滑竹梁子
(写真:滑竹梁子の森の古茶樹)
小さな存在であるけれど、正しくありたいと願っている。
ほんとうはみんな正しくありたいけれど、意識しているところはウソをついたり騙されたりしやすい。意識できるところのほうがカシコくてエライと勘違いしているし、勘違いしているとわかっていても、その呪縛から抜けるのは容易でない。
大人になる過程でそういうふうに教育されている。
弱いのだ。
人間社会が歪んだり、自然環境と調和できなかったり、不健康な状態をいつまでも正せないのは、意識に支配されているからだろ。ひとりひとりの中で、どこかで負けている。
無意識のところと通じる機会を増やして、時間を増やして、チカラの均衡を取り戻さないといけない。
世界中のおびただしい数のアーティストが、無意識のところにみんなを導く努力をしている。自分が何者かわからないまま正しくありたいと願っている。
それでも世界は変わらなくて消耗戦になって勝てる気がしないけれど、闘いを放棄してはいない。
そっち側のひとりのつもりだ。
最近たびたび「自分のお茶づくりは最強でっせ!」と自画自賛しているのには、こういう根拠がある。
勝てないかもしれないけれど負ける気もしないのだよな。自分の中のことだし。
さて、
なぜこんな話をはじめたかというと、ある問題への気付きがあったから。
良いお茶とはどんなお茶か?
仕事上、ふだんたくさんのお茶を飲んで、比べて、瞬時に判別している。
これは良い。これはダメ。
でも、なぜ良いのかダメなのか?
説明しようとしたとたんにウソが発生してしまう。話をつくってしまう。ホントウのことを言おうとしているのにウソになるジレンマ。
自分で自分がイヤになりかけていたわけだ。
なぜこんなことになるのか?
ある日ストンと理解できたのだけれど、そのきっかけとなったエピソードはつづきの記事”その2”で話すことにする。

つづく。


茶想

試飲の記録です。

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